日曜日, 7月 03, 2005

“自然”は易き道を...

“自然”は易き道を選ぶ。川の流れは海へと注ぎ、決して水源に逆流しようとはしない。滝は落ちることを止めない。決してめくれあがったりはしない。ボールは障害物のない理想的な坂であれば、どこまでも転がり落ちる。忘れものを思い出して急いで坂の上に戻ろうとするのは人だけだ。この際、獣や鳥たちのことは忘れておこう。いや、動物は水と較べれば人と同じとしておいてもいいだろう。意識上に、このことがのぼらない点だけがわずかの違いだ。だがやはり、在る活動に限って言えば、人は他の動物よりもはるかに水から遠く、動物はよほど水に近い。植物や昆虫たちになればなおのこと。羽虫は風に逆らって飛ぼうとはしない。タンポポの種は風任せに旅をする。
生殖にかかわる活動でもっとも不具合を託ち、だからこそもっとも洗練された(何とくらべて最も?)性の様式と逸脱を生きるのは人である。そこでの「ノーマル」とは、人と人が寄ってたかって作り上げた文化であって、自然に根ざしてはいない。だから、それが「人にとっての」自然なのだ。いかにも。これで終わりにしよう。すべては認識の、脳内の劇場、脳内の舞台での出来事である、としよう。
劇場の舞台上のルールはしかし、時代によって移り変わる。近くは江戸時代に、舞台に女が立つことが禁じられた。以来、歌舞伎は女形が女を演じることが「当たり前」のことになった。どころか女形であればこそ一世を風靡した。
だが女が女の役を演じることの是非よりも何よりも、性はもともと揺らぐものであり、どっちつかずのものであり(ヒトにとって)、生後間もない赤ん坊の首がすわっていないように、どっちにも転ぶ可能性をつねに持っているのが、水から思い切り遠いヒトの性であって、だからこそ女らしく、男らしくなどと口やかましかったのであって。卵子を排出すれば女、精巣を持っていれば男とは、かんたんに割り切れないのがヒトの性なのであって。しかし、
自然は易き道につく。「楽な」ほうを選ぶ。一々揺らぐたんびに苦悩するより、女はこっち、男はこっちと銭湯の暖簾のように決めてしまったほうが楽なわけで。その「決めごと(明らかに自然物ではない)」というものが、ヒトの自然性の大部分を下支えしているのだとすれば、実に困ったことになる。拘束条件を解除して眠ってるあいだに見る「夢」の状態が、白昼ストリートに現実に露呈しているのかもと思うと。いったいカブキとは、傾く(カブク)とはなんだったのか。逸脱とは、偏奇とは、パンクとは、尖端性とは。ある大きな自然の振幅の調整作用として、雄が減ったら雌が雄に、雌が減ったら雄が雌に、性を転換するある種のサカナの機序と似たものが、ヒトのカルチュラル・ムーブメントの深層に動いているのであるとしたら。何か大きな作り直しの時が巡ってきているように思えてならない。古典なき前衛は前衛でなく、ノーマルなきアブノーマルはノーマルであり、格なき破格は並でしかない。一切が平準化される情報のエントロピーいっぱいの時がやってきたようだ。だからこそ、決してそれを、政治の課題などにしてはならない。たかだか百年の計で直るような話じゃないんだから。拙速の金切り声でマイク使ってぎゃあぎゃあ騒ぐな。直るものも直らなくなるんで。と一巡りしたところで、ピグマリオン症候群について一言触れようとしたのだった。(続く)

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