月曜日, 7月 18, 2005

生存の技術/存在の技法[004]
:人が、揺らいでいる

最新(に近い)科学知識の結果、人そのものがゆらいでいる気がする。
サイバーパンク風味のあるハードSFという、新しい境地を開きつつあるグレッグ・イーガンという作家のサイトを探している途中で出会った、いかにもプログラム、プログラムした検索サイトでの書き込みイーガンの『宇宙の消滅』という作品に触れたコメントの一部だが、実に重要な“いま”を指し示す言葉だ。しかし、誰もあまり口にしない。(いまや小政治的反動も、こういう揺らぎを抜きに考えられないはずなのだ。不感症は救いようがない。だから政治的課題にしてはならないのである)。
この揺らぎの意識は世代を超えて起きている事態のはずで、ジェンダーの揺らぎだって、ここに含まれる。今現在はしかし、これ以上のことは言えない。「人そのものが揺らいでいる」。これを思い知るだけで十分だろう。
ある種の修行、たとえば仏教の禅の行で言えば『十牛図』にある第一、第二あたりだろうか、まだなまはんかな悟りへの途中であるために、やたらめったらな内臓感覚に襲われたり、人の歩行が異様なものに見えたり、身体がバラバラになって感じられたり、統覚を失ったような状態がやってくることがあるが、禅寺に籠もってもいない、日常をひたすら過ごしていく多くの人々の、ごく日常的な意識のなかでこの揺らぎが起きている、はずだ。それも「探求」の成果によって。近代の進歩史観、「今日より明日がより良いものになるのだ、がんばれば」、で行き着きつつあるのが、対立図式の存在しない「反動」だ。これに較べれば小政治的反動など、深夜番組のバカ騒ぎな集まりに過ぎない。そういう近代の自己言及とでも言うしかない、巨大な反動に襲われようとしている、希ガス。
修行途中の人は自ら望んでのことだが、時代を巻き込むこの「揺らぎ」は、どこから手をつけてよいのか、それはほとんど不可能に近い。今のところ。かろうじて「情報は情報によって死ぬ」という、情報をエントロピーから観る視点が、小さな風穴をあけるのか? あるいはそれさえ大波にさらわれるのか。見物だ。

金曜日, 7月 15, 2005

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木曜日, 7月 14, 2005

博客発展略史と基本的な史実 [weblog for beginners]]

博客発展略史と基本的な史実 [weblog for beginners]]:当時、Pyra社はネット出版ソフト「夢のチーム」を有していた。しかし、この成功も会社には利益をもたらさず、ついには財務的圧力のため、2001年1月、会社は人員を大幅に削減し、ついに究極に至った。正社員はただ一人Evan Williamsを残すだけとなったのだ。彼は創始者の一人である。夢のチームもバラバラに崩れた。もう一人の創始者はニューイングランド腎のMeg Hourihanである。それから2003年に至って、Blogger.comはGoogleに買収され、辛酸をなめるときは終わった。

月曜日, 7月 11, 2005

livedoor 辞書  ヒップホップ文学

livedoor ����新語探検 キーワード[ ヒップホップ文学 ]を含む 検索結果 1件

ヒップホップ文学 (2005年07月11日)
新しい黒人文学につけられた名称。英語では「Hip-Hop Lit」と略記されることも多い。暴力や麻薬などのはびこるアメリカ社会の裏面を、リアルに描いていることに特徴がある。麻薬密売組織を率いた罪などで7年間の刑務所暮らしをしたヴィッキー・ストリンガーが、その服役期間中に執筆した『ワケありってコトで』(青山出版社)がその代表的な作品といわれる。同作はストリンガーの自伝的な内容で、売春斡旋や麻薬密売などで大金をつかんだ女性の、退廃的享楽と悲惨さが同居する生活を描いている。女性の心理が赤裸々に書かれていることが読者の心をとらえたという。ストリンガーは同書の原稿をいくつもの大手出版社に持ち込んだが断られ、2001年に自費出版。その後出版社「トリプル・クラウン・パブリケーションズ」を設立して、同じような境遇の作家たちの作品を次々と出版し、話題をよんでいる。ラップなどのヒップホップ音楽が若者たちの心をとらえて主流となったように、文学でもヒップホップ文学が主流になる可能性を秘めているという。


青山出版社
Triple Crown Publications


著者:亀井肇 / 提供:JapanKnowledge
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日曜日, 7月 10, 2005

生存の技術/存在の技法[003]
:情報は情報によって死ぬ

gooブロガーに朗報! - goo ブログ
ブログサービスの設計思想とWeblogのそれとは、まったくもって大きな隔たりがある。diaryとlogの違いをよく噛みしめる必要があるにはあるが、簡単に、日記と巨大掲示板と、メンテナンスの問題がどこで、いやそもそもメンテナンスという意識の有無を考えるだけでも十分だろう。このGoogleが、このサービスを始めたのも、ある機能への投資によっている。深夜のサーバ負荷の異常な増大の背後で何が起きているのか、なんだか暗澹たる気持ちになってくる。
情報は情報によって死ぬ。
そろそろこの仮説を検証するタイミングだ。

金曜日, 7月 08, 2005

生存の技術/存在の技法[002]
:裸体は自然ではない


新生児にとって裸体は着衣、産着は第二の皮膚。
裸体は自然ではない。(「自然はいいいなあ」連発の、芥川賞野郎、いい加減にしな!)
中国語でヒト科を古く?「裸虫」とも綴ったらしい。大陸の雑駁さ加減、他人事のような命名が、なかなか効いていて心地よい(笑)。それにしては尊大な人物が多いのも笑えるが。命名した者は案外、自分も裸虫であることをうっかり忘れ自分だけ裸虫から除外したのかもしれない。ところで、女の裸は「商品」たりうる。場合によって男の裸も。で、この手の商品化を非難する論調がある(あった? なぜか最近聞かなくなったような)。本家本元にはない裸虫という命名に対する敬虔さをもって、裸虫であることの自覚をもって考えれば、裸体写真は、誰もが見たい、ニーズがあったことに気づくはず。それは抽象画に近いものなのであって。そもそも高度な商品性を孕んでいるのであって。
もうひとつ、「女(の身体)は男の玩具である」。玩具でありえることを認めよう。これは「玩具にするな」「玩具ではない」という否定によっては、否定しようにも否定しきれない生きた命題(現実)である。米軍女性兵士による、イラク男性兵士に対する「拷問」を持ち出すまでもなく、ジェンダー以前に、身体は玩具である。
身体の他者性を度外視したジェンダーの「誤用」に無自覚であることが、ほぼすべてのフェミニズムがゴミであることの最大の理由である。

月曜日, 7月 04, 2005

生存の技術/存在の技法[001]

バックラッシユとは、まさにこの近代が構築したもの、自らの内部の他者の存在の「影への怯え」という「我々の病い」に他ならないのではないか。

それはあるでしょうね。ジェンダー・バックラッシュ。でもね、だから?って訊き返したくなるよ。解答は期待できないので、解答に近い断片を引用しておく。へたれフェミニストには読解不能だろうが。

イリイチ: ヨーロッパ世界では、男と女の関係を、私がゲヌス(=ゲヌス・ロキ、場所の神のこと)として理解している関係を取り戻すことはできないと私は思います。
石牟礼: 日本でもほとんど不可能ではないでしょうか。いかにそのゲヌス・ロキ、場所の神が、私どもの列島の隅々から追い払われてゆきましたことか。男も女も、近代の悪霊のようになっておりますが、この二つのことは根源のところで結ばれているのに、そこを食い荒らされているのです。

本来のジェンダーって何? って、そこを示してよ。たまにはロキに帰依して、不可能性に額づきながら、
少なくともそれを、描き出す努力をして、からだはって提示したほうがいいよ。公開講座なんぞを自己目的化して、のうのうと口舌の日々を送って恥ずかしくはないのか。(あ、シユじゃなくシュね、backlash)

それと言葉を誤って使わないように。それは、ジェンダー・バックラッシュではなく、
イデオロギー・バックラッシュ。てかさ、「激しい反動」とかって日本語使って書けよ。そんな一般性があるわけじゃないんだから、あなたがた固有の、その何に対して反動されているのかを、脚下照顧しつつ書けよ。
「怯え」はたかだかあなたがたの小政治的反動に対するものであるに過ぎないのであって、「我々の病い」などと、糞ミソほざくのやめな。

日曜日, 7月 03, 2005

“自然”は易き道を...

“自然”は易き道を選ぶ。川の流れは海へと注ぎ、決して水源に逆流しようとはしない。滝は落ちることを止めない。決してめくれあがったりはしない。ボールは障害物のない理想的な坂であれば、どこまでも転がり落ちる。忘れものを思い出して急いで坂の上に戻ろうとするのは人だけだ。この際、獣や鳥たちのことは忘れておこう。いや、動物は水と較べれば人と同じとしておいてもいいだろう。意識上に、このことがのぼらない点だけがわずかの違いだ。だがやはり、在る活動に限って言えば、人は他の動物よりもはるかに水から遠く、動物はよほど水に近い。植物や昆虫たちになればなおのこと。羽虫は風に逆らって飛ぼうとはしない。タンポポの種は風任せに旅をする。
生殖にかかわる活動でもっとも不具合を託ち、だからこそもっとも洗練された(何とくらべて最も?)性の様式と逸脱を生きるのは人である。そこでの「ノーマル」とは、人と人が寄ってたかって作り上げた文化であって、自然に根ざしてはいない。だから、それが「人にとっての」自然なのだ。いかにも。これで終わりにしよう。すべては認識の、脳内の劇場、脳内の舞台での出来事である、としよう。
劇場の舞台上のルールはしかし、時代によって移り変わる。近くは江戸時代に、舞台に女が立つことが禁じられた。以来、歌舞伎は女形が女を演じることが「当たり前」のことになった。どころか女形であればこそ一世を風靡した。
だが女が女の役を演じることの是非よりも何よりも、性はもともと揺らぐものであり、どっちつかずのものであり(ヒトにとって)、生後間もない赤ん坊の首がすわっていないように、どっちにも転ぶ可能性をつねに持っているのが、水から思い切り遠いヒトの性であって、だからこそ女らしく、男らしくなどと口やかましかったのであって。卵子を排出すれば女、精巣を持っていれば男とは、かんたんに割り切れないのがヒトの性なのであって。しかし、
自然は易き道につく。「楽な」ほうを選ぶ。一々揺らぐたんびに苦悩するより、女はこっち、男はこっちと銭湯の暖簾のように決めてしまったほうが楽なわけで。その「決めごと(明らかに自然物ではない)」というものが、ヒトの自然性の大部分を下支えしているのだとすれば、実に困ったことになる。拘束条件を解除して眠ってるあいだに見る「夢」の状態が、白昼ストリートに現実に露呈しているのかもと思うと。いったいカブキとは、傾く(カブク)とはなんだったのか。逸脱とは、偏奇とは、パンクとは、尖端性とは。ある大きな自然の振幅の調整作用として、雄が減ったら雌が雄に、雌が減ったら雄が雌に、性を転換するある種のサカナの機序と似たものが、ヒトのカルチュラル・ムーブメントの深層に動いているのであるとしたら。何か大きな作り直しの時が巡ってきているように思えてならない。古典なき前衛は前衛でなく、ノーマルなきアブノーマルはノーマルであり、格なき破格は並でしかない。一切が平準化される情報のエントロピーいっぱいの時がやってきたようだ。だからこそ、決してそれを、政治の課題などにしてはならない。たかだか百年の計で直るような話じゃないんだから。拙速の金切り声でマイク使ってぎゃあぎゃあ騒ぐな。直るものも直らなくなるんで。と一巡りしたところで、ピグマリオン症候群について一言触れようとしたのだった。(続く)

土曜日, 7月 02, 2005

私の帰還

昨日、私が帰って来た。
ためらうことなくYoshino、と呼びかける。
静かな優しい風が、心臓を少しずつ暖めてくれているような、穏やかな気持ちに満たされていく。
Yoshinoの最後の<o>音は、深く魂の底に達し、それは木霊のように眼底に届いて。幽かな涙となって。全身を包むようにせせらいでいく…。

私との、テレパシーが、
また、始まる。
(Yo..shi. no...)

金曜日, 7月 01, 2005

超越的、超越論的、

確かに、恋愛とはそういうものでした。扁桃核と前頭葉が硬く硬くロックされ、30億分の1である、あなた一人しか見えない状態になるのでした。
脳内の劇場です。
そこに、MとMTF、MとF、FとF、FとMTF、FとM、FTMとF、MTFとFTM、MとFTM、MとM・・・などなどによる差異は、まったくもって生じようがないのです。

恋愛はただただ当事者だけのモノ、それに尽きるようで。

確かに。不思議に尽きる真実です。