詐欺または、誤解、もしくは解釈の障害について、考える(なんと安穏とした言葉だろう)こと以外に、詐欺または、誤解、解釈について、いまのところ「解決を図る」手立てはない。それは簒奪されていったので。
Yoshinoという偽者を商品として売った、というメッセージの自白性、もしくはカミングアウト;coming-outの衝撃(衝撃?)を「解釈」するのは、どこまでも記号、しかも生身の記号を介してのことであるかぎり、他者理解の不可能を、あらかじめ、あからさまに、透明な遮蔽膜のように強固にも現実化しているのであって。しかも、もっとも親密な「姿;figure」が宣言するそれ自身の姿によって。その姿を「撮影」することは可能だが。プリクラであれ、デジカメであれ、クロッキーであれ。だが、それがよもや「詐欺」であるとは、誰にも、何によっても判定されえないという、解釈さえ許されないという。誤解は数あるそれらのなかの「修正変更可能な解釈」の一つに過ぎないとしても。
すべてが反転する瞬間、その記憶の、恩寵を、何処へ?

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