金曜日, 7月 08, 2005

生存の技術/存在の技法[002]
:裸体は自然ではない


新生児にとって裸体は着衣、産着は第二の皮膚。
裸体は自然ではない。(「自然はいいいなあ」連発の、芥川賞野郎、いい加減にしな!)
中国語でヒト科を古く?「裸虫」とも綴ったらしい。大陸の雑駁さ加減、他人事のような命名が、なかなか効いていて心地よい(笑)。それにしては尊大な人物が多いのも笑えるが。命名した者は案外、自分も裸虫であることをうっかり忘れ自分だけ裸虫から除外したのかもしれない。ところで、女の裸は「商品」たりうる。場合によって男の裸も。で、この手の商品化を非難する論調がある(あった? なぜか最近聞かなくなったような)。本家本元にはない裸虫という命名に対する敬虔さをもって、裸虫であることの自覚をもって考えれば、裸体写真は、誰もが見たい、ニーズがあったことに気づくはず。それは抽象画に近いものなのであって。そもそも高度な商品性を孕んでいるのであって。
もうひとつ、「女(の身体)は男の玩具である」。玩具でありえることを認めよう。これは「玩具にするな」「玩具ではない」という否定によっては、否定しようにも否定しきれない生きた命題(現実)である。米軍女性兵士による、イラク男性兵士に対する「拷問」を持ち出すまでもなく、ジェンダー以前に、身体は玩具である。
身体の他者性を度外視したジェンダーの「誤用」に無自覚であることが、ほぼすべてのフェミニズムがゴミであることの最大の理由である。

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